2009年10月19日月曜日
生きていること
最近、耳にする言葉が少ない。
外で人と話す機会は保育園の送り迎え以外ほとんどない。
わが子が発するのは喃語と泣き声、そして相方は「うーん」という喃語以下の中途半端な相槌が殆ど。そうでなくとも、基本的に、指示語と擬音語と擬態語だけで表現しようとする。指示語だけで通じない場合、色で形容されればまだいい方だ。
「あ、それピッとやって…、うーん、それじゃなくて、そ、その赤いの…」みたいな。
もともとボキャブラリーに乏しいうえに、こういう環境にいると、ほとんど言葉が出てこなくなる。
そうした中、今、仕事の計画を考える文書を作成中だが困難を極めている。自分が今までやったことはことごとく忘れてしまう性質なのに加え、現状ではうまい言葉を見つけたり、論理的に考えたりする脳が死んでいる。1日2行ぐらいしか思い浮かばない。そこで、他の人たちの仕事を検索してみた。そんなことをしているうちに数年前に30台半ばで癌で亡くなられた女性研究者とその夫の闘病記のブログが1冊の本となって出版されているのを見つけた。
本のタイトルは、正直、メロドラマのようで感傷的過ぎて恥ずかしいのだけれど。ウェブ上で立ち読みしたら、脳にまで癌が転移した彼女が、治療の過程で、夫のことが誰だかわからないと泣いてしまう場面があり、泣けた。その後、となり駅の本屋さんで実際の本をざっと立ち読みさせていただくと、本人と夫という闘病の当事者によってその当時に綴られたものであり、二人とも文章をまとめることのプロであることから、タイトルや表紙の写真から連想されたほど感傷的な場面がほとんどないことを知った。というよりも、すでに発見されたときは癌が進行しており、すでに感傷を連ねるような状況には全くなかったということが大きいのだろう。
かつて、所属している会のメールで訃報が出されており、まったく存じなかった私は、随分と早くに...と思った。その後、その方が著書にまとめられた仕事を拝読する機会があり、本当に素晴らしく、とても感動した記憶がある。これからというときに、体、そして彼女にとって一番大切な脳も冒されていく苦しみがどれほどであっただろうかと思う。
命こそ尊い、生きていることが何よりも尊いということについて、そうだと思うこともあるし、そうだと思えないこともある。たとえば、生きることをやめたいほどの苦しみを持つ人に、この言葉は時として限りなく空虚に、残酷に響くとも思う。わが子がやってくる前は、ただ生きていることなんて当然過ぎて、考えることはなかった。そして最近の自分は、今、ごく普通に生きていられることを有難いと思えるようになった。またそう思える自分のことを嬉しいと思える。
週末、妹が来た。お知り合いの方からと言って、クリームをもらった。とってもかわいい!ありがとうございました。
それから、アリを埋葬した。バイバイまたね。
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