2011年3月23日水曜日

1歳9カ月になったけれど

地震からすでに10数日がたちました。明後日で2週間。

週末に、googleの避難者名簿のテキスト化ボランティアをしたり、東京都から物資を被災地に届けられるということで、鹿児島や大阪の親族から送ってもらったおむつ、おしりふき、乾電池、マスク、軍手などを都庁宛てに送ったりしました。それから、壊滅的な被害を受けたある自治体(市)に募金をしたいと考えたのですが、ホームページは、とまったままでした。今後は意識して被災地域のものを消費したり、旅行したりして、ポジティブな気持ちで、復興に参加できればと思っています。そして自分もはやく、このもやもやした日常から抜け出して、普段の「日常」以上にパワフルな日常生活を送りたいと思っています。

とはいうものの。。。。現実のこととは思えなかった2週間。。。今でも続く断続的な余震で、平衡感覚が狂い、どこか浮遊しているような気分の悪さ。その感覚は精神的にも同じで、先行きの見えない不安とおそらくその不安を和らげるための自衛的放心状態とのあいだで時が過ぎていきました。

被害にあわれた方、大事な人をなくされた方へのお悔やみの言葉があまりに軽々しく聞こえるようで、どういう言葉があるのかも思いつきません。

東京でも、これまでに体験したことのない震度5強の揺れを初めて体験しました。
食器棚は倒れなかったものの、その中に飾っていた陶器の小さな置物たちやお猪口たちが音を立てて落ちていきました。食器棚のガラスの扉が割れるかと思いました(たまたま本棚とテーブルが食器棚が容易には倒れないような形で配置されていました)。そういう揺れが長いこと続きました。どーんというような縦揺れはなかったように思います。なぜかこの1ヶ月ほど、阪神大震災のときの動画や情報を探してみていたのですが、それとはレベルが違うとはいえ、震度5強は思っていたよりも揺れなかったようにも思います。

この地震だけでも、自分にとってはかつてない体験だと思っていました。しかしその直後から今日まで日本の関東・東北地方の沿岸部を中心に起こったことは、そのようなレベルのものではありませんでした。その直後からTVに映し出されるようになった、津波による恐ろしい光景。さらに、原発事故。

地震の当日は、午前中にうちから離れたところにある図書館にいったのですが、仕事が手につかないから帰り(第6感とかではなく、私にはしばしばあること)、帰宅したほとんど直後に地震が来ました。もしもう少し図書館を出るのが遅れていたら、どれだけ帰宅に時間がかかっただろうかと思います。都心は、基本的に大きな被害はなかったものの、震度5の地震はあっけなく交通機関を寸断しました。相方(お父さん)も、歩けば20キロもない(直線距離で10キロ)と思われる職場との距離ですが、帰宅難民となり、翌朝帰宅しました。

私には仙台に親族が何人もいるのですが、みんな大丈夫ということでした。が、そのうちのひとりの叔母は、いまは単身、高齢で、壊滅的な被害を受けた区の隣の区の新しくはない木造家屋に住んでいたので、とても心配しました。彼女とは1週間後にようやく直接連絡が取れるという状況でした。みんな「大丈夫」というのだけれど、TVで避難所で生活されているお年寄りが「元気だから心配しないで」と一様に言っているのを見ていると、今の緊張状態にあるその「大丈夫」を過信せず、見守って生きたいです。

ところで、今回、首都圏の人が恐れたのは、高確率で再来する余震ではなく、原発事故による放射能だったと思います。その事故も、各所に電源が入ったようで、冷却機能の回復に向け、ようやく事態収束の兆しが見えてきました。昨日、それまでのあまりに先行きの見えない関係者の会見に、もしかして日本政府はでたらめを・・・、と思い、IAEAのホームページで情報収集したのですが、基本的な情報としては必ずしもそういうこともなく、またそこに書いてあった一部地域で、通常の1600倍の放射能が検出されたという件も、いくつかの国内主要メディアでは報道されていて、少し落ち着いたのでした。

しかし、インターネットでいろいろな情報を収集してみると、福島県内でのオフィシャルな放射能の測定値が非常に限られていることや、全体としてメディア露出の専門家の方たちの「大丈夫」については、いまだ不信感をぬぐえません。「直ちに影響がない」レベルといわれても、その逆の、「直ちに影響がある」レベルなんてそれは、(健やかな)生命の維持が短期的に困難になるレベルでしかないのであって、それがないといわれても、納得できない。加えて、風評被害。。。まあ、ネガティブな発言をする時期ではないですね。



さて、わが子の成長報告です。

自身の前日に行われた保育園の卒園式では、各クラスが出し物をして、わが子のクラスもお遊戯的なことをしました。結構ちゃんと参加できていました。クラスのメンバーを紹介する場面では、ほかのお友達とともに、自分じゃない名前が呼ばれても、はい!と挙手。笑いを誘っていました。また全員合唱のときも、手拍子を取ってのりのりでした。本当に音楽が好きな子です。幼児のお遊戯的な曲には、いかにもな感じで左右に体を振りながら拍子をとる一方で、お気に召したヒップホップには、ほとんどyo,yo,yo!的なのりでビヨンビヨンと小刻みにゆるい縦のりを見せます。面白すぎます。

ところで、あの地震の日、あまりに横揺れが続くので、軽率に迎えに行くよりは、保育園の方が安全だろうと思い、少したってから迎えに行きました。園に行くと、園内は若干騒然としていました。なんと貯水タンクの配管が壊れて水も噴出していました。保育士さんからの報告で、わが子は、地震時には、ちゃんとしゃがんでくれたとか、その後、避難も想定して全員を布オムツから紙おむつに履き替えさせるとき、状況が飲めていないお友達をおむつ台のほうに誘導していたとか、ということを聞きました。わが子は、園の看護師さんと本人との間では、「保健係」ということになっているそうですが(笑)、やる気満々なんですね。

その後、今日まで、相方(お父さん)は自宅勤務となり、二日ほどを除いて、ずっと自宅にいました。そのなかで、何を言っているかわからないことがほとんどですが、何かをよくしゃべるようになり、それからわかる言葉もよくしゃべるようになり、とても大きく成長しています。スカイプや電話で祖父母と話すときに、「お」がつけられず、じいちゃん、ばあちゃんと言っていたのがいつの間にか転移して?最近、両親はいつの間にか、とーちゃん、かーちゃんと呼ばれるようになりました。私自身、実はこの呼び方は気に入っています。

そして、この1ヶ月間でのなによりの成長は、トイレ。ウンチのためにトイレに行くようになりました。出ないときも、もうすでに出ているときもあるのですが、率先してトイレに行き、ズボンとオムツを取り、お風呂の椅子を踏み台にして、大人の便座に自分で座るようになり、時々、無意味にトイレットペーパーを便器の中に押し込み(まだ使い方がわかっていない模様)、ちゃんとできると(出ないときも時には)「うんち、あるねー」といい、最後にはいうんちにバイバイをしてみおくるという、一つ一つの工程を楽しんでいるようです。うまくいったときは、付き添う私も達成感を感じています(笑)。



この地震は途轍もない被害と悲しみを生み出したけれど、この自然の猛威は破壊だけをもたらしたのではないと信じたいです。日常生活のあり方とか、組織のあり方とか、家族や人との絆とか、もっと広い意味での世界の人との繋がり(連帯)について新たな力を与えてくれたと考えたいです。

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